〈カフェ・古今レポート3〉6月10日

「森を見るために木を見よ」
-昨日《カフェ古今》開催-馬場駿吉先生から身体表現の歴史は、たえず創造するベクトルにより創られたことを映像を見ながら-
「古今」伝授のひととき、愉しく有難く、皆さんと。
約二万年前のユスケール洞窟壁画の【手】から始まり、シチリア、アッダウラ洞窟の時間の中で身体を意識する【動いた姿】。次の時代には、精神の内包を表し、美へと向かう。
人体は円と正方形に内接するという記述を表現したレオナルド・ダ・ビンチ。
1489年【解剖図譜】
医学的な部分と、美術家俳人のはじける無数の泡が、建築論から人間の豊かな情感の経過まで、馬場先生は、そこに見えない絵画を描いていくように話され、創造物=身体がいとおしく興味深く感じられる。
頭部の空洞は、外部からのショックをおさえる役割であり、直立するようになった人類が脳を支えるため進化。
進化とは日々薄い蓄積の形状の繰り返しであること、より今に通じるため敏感にして、その蓄積は形状を変化させ、時代の気配に応じていくことができるということである。
東洋と西洋の身体表現は人界の輪郭から、数ミリ数センチのベクトルでは共通していると感じる。
求心性指向を日本人、遠心は西洋性の指向と言われながら、しかし、広い海原、つきぬける空を日本舞踊で表現するには、求心よりも、遠心にしながら求心の身体にとけて無くなるような感覚がなければ到達できない。
近代西洋美術は、光りの色彩で輪郭を見せ、同時代、日本は浮世絵でみるように、墨で象り、閉じ込めながら、開いていった。
虐げられた身体へ
1937年ピカソ【ゲルニカ】抑圧の時代。
ロダンの悩める身体。
自己とは何か、耳に包帯をしパイプをくわえたゴッホの自画像は、日本の浮世絵に触発されているように思う。
ゴッホから、人間の心に満ちた修羅の老武者を想像できた。芸術の狂騒の時代に生きて、自己の葛藤、人間性を見出だす芸術の方向に立ち上がっていくように感じられる。
このように
もうひとつの「日本の旅」を皆様と出来ますことは、とても大切なことに思います。
舞台芸術は、絵画や彫刻のように後に残るものではありません。世阿弥が言うように、その場その時の観客としか存在することができない、はかなさと向き合わねばなりません。そこに、伝えていく意思と、魂に残るものへの憧れが生まれて。
薄い蓄積も、重なれば、強い芸術になり得ると、馬場先生の最後のお話しに深々ー。 

市川櫻香の日記より

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